こんにちは。
オリンピック終わりましたね。
と思いきや夏の甲子園が始まり、さらにそのあとはパラリンピック。
スポーツの夏になりそうです。
今回も関西歴史旅を書いていきます。
旅は2日目に入り、午前中は京都御苑を観光していきます。
前回の記事でも京都御苑について書きましたが、今回はその中でも「門」に注目していきます。
現在NHKで放送中の大河ドラマ「青天を衝け」でも放送された禁門の変という戦いの舞台になっているのが、京都御苑の門なのです。
この旅行に京都を入れたのは、禁門の変の跡を巡りたかったといっても過言ではないくらい、メインイベントになります。
禁門の変とは、幕末長州藩が京都守護職にあった松平容保の追放を目的として、朝廷を警備していた会津藩や薩摩藩などと戦ったものです。
筆者自身も幕末史はそこまで得意ではないので、背景等色々存在すると思いますが、簡略して、そこまで歴史に興味がなくても「すごい」と思えるようなことを掘り下げて書いていきます。
それではスタート!!
まずは京都御苑に訪れて最初にくぐった乾御門です。
烏丸通に面する最も北の門になり、今出川駅からだと一番近い門になります。
禁門の変においては戦いがあったのかは不明ですが、ここを守っていた薩摩藩が各門へと援軍を送ったという話はどのサイトにも出てきていました。
続いてやってきたのは中立売御門です。
中立売御門は一度長州藩に破られている門です。位置関係的に乾御門や蛤御門などと隣り合っている門になりますが、どうしてここだけ破ることができたんでしょうか。
とても気になりますが、これ以上調べるとしてもどうやってやればいいんですかね…
一度は破ったものの、乾御門を守っていた薩摩藩の援軍によって押し返すことができたようです。
この中立売御門から西に伸びていく道には中立売通りの名がつけられています。
北野の方まで伸びており、そこで中立売通りの1つ北側を通っている一条通へと合流するようです。
京都の通りはほとんどこのようにして名前が付けられており、堺町御門から伸びる通りは堺町通りなど、京都御苑の門の名前がついている通りが他にも存在するようです。
中立売御門を京都御苑内から見たところこんな感じです。
門といいつつ、門の外からも出入りすることができます。
というより歩行者の場合は門を出入りするのではなく、横から入ることになります。
その理由が次の写真でわかります。
中立売御門のすぐそばには駐車場があります。
そのため中立売御門自体は自動車用の門となっています。
古風な門の下を自動車がくぐっていく光景なかなか見えるもんじゃないと思います。
しかも歴史的な出来事、禁門の変の戦場となった門ですからね。
いったん門から離れます。こちらは清水谷家の椋。椋の木です。
御所のすぐそばにあり、御所を囲う道のど真ん中に位置しています。
最初見た時はそこまで重要な木ではないのかなと思っていましたが、説明書きを見てみると、、、
禁門の変の際、長州藩の来島又兵衛がこの木付近で討ち死にしたという話があるようです。
来島又兵衛は禁門の変において先ほどの中立売御門での戦いに参戦していました。
討ち死にしたとも、致命傷を受けて自害したとも伝わっています。
京都御所の壁もすぐそばにあり、左側には激戦だった蛤御門がすぐそばに迫っています。
記録があいまいになっているのも、当時の大混乱具合を推し量ることができますね。
椋の木から左側を見るとすぐに蛤御門が見えてきます。
現在の京都御苑としてとても広く感じますが、戦いの舞台としてみるととても狭くて、本当に何千、何万の兵同士が激突していたのかと疑問に感じてしまいます。
さて禁門の変の中でも最も激戦となっていたのがこちらの蛤御門です。
禁門の変はこの蛤御門での激戦があったためか、蛤御門の変との名前もついています。
たしかにこれまで見てきた門よりも歴史の長さをひしひしと感じます。
中立売御門を破った長州勢は勢いのまま隣にあった蛤御門へと突っ込んできました。
蛤御門は会津藩によって守られていましたが、勢いづいた長州勢に徐々に劣勢に追い込まれていたようです。
しかしここでもまた薩摩藩が救援に駆け付け、激しい戦闘になっていったようです。
朝廷側の目線で見ると薩摩藩は大ヒーローですね。
禁門の変とは関係ありませんが、この門が蛤御門と名付けられた理由が少し面白いので紹介したいと思います。
この門は開かれていない門だったようです。
しかし江戸時代の大火の際に初めて門が開かれたようです。
これが焼かれて初めて口を開く蛤の姿にたとえられて「蛤御門」と呼ばれるようになったそうです。
他の門の名前と何の脈絡もなく蛤の文字が出てくるのが不思議でしたが、そういう理由があったんですね。
この蛤御門にはその戦闘を激しさを物語る弾痕がいたるところに残されています。
写真を撮ってみたものの、これが本当に弾痕なんでしょうかね…不安です。
もちろん触れてはいけないと思いますが、触れる人もいるようで劣化の心配がされています。
これを見ると実際にここで戦闘が行われていたんだなと実感することができるとともに、少しばかりの恐怖も感じました。
最後に京都御苑内にある鷹司邸跡です。
ここ鷹司邸は長州藩の久坂玄瑞が禁門の変終盤に訪れ、朝廷への取次ぎを請うも拒絶され自害をした場所でもあります。
現在は完全に何もない場所で、どんな建物があったのか想像もつきません。
先ほどの蛤御門などからは距離があり、ここまで長州藩士の侵入を許してしまうほどの混乱状態だったのかと思うと、変の結果が変わっていてもおかしくなかったですね。
ということで今回はここまで。
そこまでじっくり勉強をしてきたわけではないですが、幕末の一大事件に触れてみて、より勉強したいという気持ちが強くなりました。
禁門の変の背景には様々な要因があり、変後の事件にもつながっていきます。
いつかちゃんと勉強をして、幕末をテーマに京都を観光してみたいですね。
他にも様々な時代の事件の現場となった京都の町。いくらでも観光することができるような気がします。
次回は京都の中心部の話、そして伏見観光と続いていきます。
最後までお読みいただきありがとうございました。